世界が終わる日が休日ならいいな

好きなものを好きなときに好きなだけ

ミュージカル「カムフロムアウェイ」を観たよ

【わたしはここにいます この世界のどこか あなたの隣に】


2001年9月11日。当時小学生だったわたしは、繰り返し流される映像を見ながら「よくわからないけれど何かとんでもない、取り返しのつかないことが起きている」と感じていた。
まさにその時、領空封鎖のためアメリカ領空に進入できず、カナダのガンダー国際空港に着陸させられた38機の飛行機に乗っていた乗客たちと、空港があるニューファンドランド島の住人たちを描いた群像劇。
BW版の配信もあるけれど、初見の演目は劇場で初めて観て感じたことを大事にしたいので、映像・音源は見ず、インタビューや記事もさらっとだけ見て観劇しました。稽古場潜入番組だけ好奇心に負けて見てしまった……笑。


日本初演とともにキャストが発表されたときに一番に浮かんだのが「よくこのメンバーのスケジュールが確保できたな……」ということ。恐らく多くの人が同じことを感じたと思いますが笑。
BW版を知っている人たちからは「スター俳優ではなく、普段アンサンブルをしているような人たちをオーディションでキャスティングしてほしかった」という声も上がっていたのを見かけていたが、実際観劇してその意見にも納得しました。
けれどわたしはこのキャストで観られてよかったとも心底思った。というのも「12人全員がほぼずっと舞台上に出たまま100人以上の人を演じ分ける」ためには実力以上の説得力が必要であると感じたから。
メインでお話が進んでいるときにはスッと目線が向くのに、その場にいるただのひとりになったときにサッと意識の外にいってしまう、オーラというか存在感の出し入れを全員が同じように(それも高いレベルで)自在にできて、なおかつ全員が同程度の知名度でないといけない。誰か突出したスターがいると演目のバランスが崩れてしまう。となると今の日本ではこのキャストになるだろうと思った。演目や役に合っていることも含めて。
全員「このキャストのこんな役もう見たことある」と感じるほどぴったりだったし、「いるいる、こんな人」とも思えるくらいに自然だった。めぐさんの機長なんてみんな見たことあったでしょ幻覚を。
ケルト調の音楽も楽しく軽快で、それでいてノスタルジックな気持ちにさせてくれた。あのスターたちがコーラスをやっている……!という、もはや逆に新鮮な気持ちにもなった笑。

見せ場以外で特に印象的だったシーンがある。
飛行機を降ろされて町に向かうバスで不安になっている加藤和樹・モリクミさんの英語の分からない夫婦に、浦井くんだったかな?モリクミさんの持っている聖書の一節(思い煩うことなかれ)を示してメッセージを伝えるところ。宗教に端を発したテロが起きている状況の裏で、宗教によって分かり合える人たちもいるのだと妙に印象的だった。
そしてその隣では宗教によって差別される人の姿も。まりおが演じたエジプト系のイスラム教徒のアリは執拗な身体検査を受けたりキッチンに入らせてもらえなかったりお祈りを白い目で見られたり……。とても象徴的な役だと思った。プロデューサーがまりおにこの役を演じてもらいたいと思ったのもわかる。
積極的な差別をする人もいるし、「この人個人が何かしたわけじゃない、でも」と消極的な差別をする人もいるだろう。分かり合える人も分かり合えない人も、馴染める人も馴染めない人もいる。「様々な人種で演じるべき作品だ」という感想があったのも分かる。
加藤和樹が演じた人たちがすごく印象に残っていて(終演後ロビーで偶然会った知人と「加藤和樹おいしいよね」って話した)、BW版では彼は黒人がキャスティングされていることを聞いてなるほど、と納得した。
「撃ち殺されるかも」という台詞が俄然説得力を持ってしまったのだ、悲しいことに。
今この瞬間も、世界のどこかで差別があって、世界のどこかで分断があって、世界のどこかで戦争が起きている。過去の話といえどもたった20数年前の話、世界はまだまだ問題を抱えている。
日本で暮らしていると、興味を持って報道を見ないと実感を持って人種や宗教での差別を認識することが少ない。そういう意味では日本以外のルーツを持つ人が少ないキャスト(他国にルーツがあるのはとうことシルビアさんだけかな?)で、日本に暮らす日本人が多く観ていると、実感するのにハードルが高いのかなとも思った。
のんべんだらりと暮らして学が浅いわたしがこの演目が持つメッセージをすべて受け止められているとも思わない。
終盤、ガンダーから飛び立つカムフロムアウェイたちからお金を受け取らない町長が言う。
「あなたたちも同じことをしたでしょう」
わたしは正直自信がない。自信がないどころか、客席で「無理だろ」と反射的に思った。
人災である9.11と一緒にするべきではないけれど、日本は天災で「避難してくる人たち」を想像しやすいから、この状況を「自分だったら」に置き換えやすいのではないかと思う。
ただ偶然の出来事が重なってそこに降り立った世界中の人たち。悪人なのか善人なのか、どんな人なのか分からない。町に受け入れ、家に受け入れ、いつまで続くか分からない中で不眠不休でケアをし続ける。無理だ。
それでも、例えば劇中でもあったように古着を寄付することなら?募金をすることなら?信頼できる情報をシェアすることなら?
「今ここにいる自分にできること」。それをこれからも考え続けるのかもしれない、そして「これはいつかのわたしの物語」だと強く実感する台詞だった。

何という言葉が正解なのかな。この言葉もちょっとずれているかもしれないけれど、受容と理解、そして祈りの物語だなと思った。どのシーンがきっかけだったか、中盤以降ミュージカル「MITSUKO」のこの台詞を思い出していた。
「戒めねばならないほど、人は隣人を憎むのだよ」
それでもわたしはこの演目で観た愛や優しさ、10年後のシーンの歓びを信じたいし、この演目が現実にあったことを基にしていることに希望を持ちたいです。
奇しくも「MITSUKO」で主演していたとうこと、ちえのアフタートーク回だったのですが、とうこが「もうちょっと、人間力とかそういうことを言じてもいいんじゃないかな」って言っていたのが不思議な緑を感じました。
*「MITSUKO」日本で初めての国際結婚をしたクーデンホーフ=カレルギー・光子の生涯を描いたミュージカル。2011年上演。
子どもたちが聖書を読んでいるシーンで「隣人とは、すべての〝自分とは違う人〟のこと」という台詞がある。


上演前後は撮影OKだったので一眼レフを持ち込みました笑。
中央上手寄りの折れた木はワールドトレードセンターを表現しているのだそう。

2024.04.06. 17時