【阪神・淡路大震災の記憶】
大阪府下ではいちばんの被害を受けた地域である北大阪で生まれ育ったわたしは当時5歳で、リアルタイムの記憶はほとんどない。揺れで起きたと思ったら母が「大丈夫?」と声を掛けにきたと記憶しているのだが、母曰く「ぐっすり寝ていた」そうなので、この記憶は他の地震のときかもしれない。
なぜかはっきりと記憶していることがひとつあって、それは幼稚園のお迎えに来てもらって各々母親の自転車に乗せてもらっているときに母親たちが交わした会話。
「買ったばっかのコーヒーメーカーが割れちゃってん」
「うわぁ残念やねぇ」
誰の家のコーヒーメーカーなのか覚えていないけれど、この会話はなぜかくっきりはっきり覚えている。
我が家は震災の半年前に新築建て替えをしたばかりで、だから潰れずに済んだんちゃうか、というのが父親の見解だ。
アップスタンドのピアノが動き、食器棚の観音扉が開いてその棚に片付けてあったお皿がほとんど割れた程度の被害だった。
三歳上の兄の友人の話では、箪笥が倒れてきたけどたまたま空っぽだったから九死に一生を得たとか(なんで空っぽなんだ)、小学校の教員がひとり亡くなったとか、そういう話もあった。あぁそういえば、戦前からある小学校の校舎の一部が崩れて落ちて来て、戦時中に校舎を墨で塗った跡が出て来たなんて話もあった。
近所に広い敷地の公園というか空き地があり、気が付けば仮設住宅が所狭しと立ち並ぶようになっていた。その仮設住宅が無くなったのが何年後のことなのかは覚えていない。
【情報を極力減らした演出、それに応えた役者】
演劇的な感想を先に言ってしまうと、セット転換がほとんど無く、小道具や芝居だけで観せていく方法はとても好きです。普段ミュージカルを観ることが多くて、いつも観ているのは宝塚だし、大きなセットがあることがほとんどだけれど、観客の想像力を信頼している演出もとても好き。
ミュージカルとストレートプレイはそもそも演出の組み立て方が違うと思っていて、今回はストレートプレイのよいところを凝縮したような演出だなと思った。消防関連以外の小道具をほぼ無くすことによってそれが際立つし、無駄な情報が排除されることによってこちらが頭を働かせやすい。あと転換もしやすい。こういう演出は役者の演技力がぐずぐずだと何もつまらないけれど、3時間近くずっと引き込まれたままだった。
役者であれば当たり前と言ってしまってもよいのかも知れないが、普通に喋っているようで言葉がきちんと客席まで聴こえてくるのはもちろんのこと、どこまでも普通に見える。ファンタジーではないリアルの現代劇はどこまで「普通」に見せられるかが勝負だけれど、本当に「普通」だった。すごい。演技力というのもそうだが、消防士・救命士としての動き方があまりにも「普通」だった……出場のサイレン(というのかな)が鳴った瞬間に予備動作無しに駆けていくのもあまりにも「普通」。こういう細かいところの積み重ねが演劇だとも思う。
全部ではないかも知れないが、救助隊員が要救助者を横抱き、いわゆるお姫様抱っこで運ぶとき、亡くなっている方の腕は伸びっぱなしで、生きている方は腕が回されていたり力なくぶら下がっていたりしたのも凄かった。硬直してるんだよね……。
二階建てのセットを使った演出も上手かったなぁ。上と下で違う空間というのはよくあるけれど、切り替わりの演出が違和感なく進んでいて、このあたりも「観やすい」要因だと思う。2日とも見上げる位置のお席だったけど首を振ることなく観るべきところが視界に入れられたのはすごい……物理的にも観やすかった……舞台を観るのにストレスがなかった。これは演出のおかげだと思う。
シリアスなお話だけど息が抜ける場面もあって、うまく緩急がついてることもあったのも観やすい要因だよね。アドリブのシーンも冗長にならず、いいタイミングで切り上げていた、あの見極めってけっこう難しい。石丸さんがスリッパで綾小路さんの頭をはたくところ、いい音がしていたからあれきっと痛くないやつだよね、テレビ的に喜ばれるやつ笑。はたき返してたのは鈍い音がしてたから痛いやつ、テレビ的に喜ばれないやつ笑。
あと「湊山、明石、尼崎、ビューン ビュン!」は「明石でしょ?俺尼崎ですもん」から笑ってしまったのだけど、東京公演ではウケなかったと聞いて、ご当地ネタすぎるな!!ってまた笑ってしまった笑。
【"被災者"と"被災者"、展開する現実】
東日本大震災のときにも、先般の北大阪地震や台風21号の際にも言われていたけれど、救助する側も"被災者"。今作の登場人物はみんなそうで、桜井さんなんか分かりやすくそうだった。被災した中で他人のために動くというのは難しくて大変なことだと思う。フォーラムで自助と共助の話、「まずは自分、次に家族、それから近所の人」という話があったけれど、まずは自分というのは変わらないにせよ、家族より近所の人を助けないといけない。
そして指示には従わなくてはいけない中、「声がしなければ次の現場へ」という指示が出ていたというのは、フィクションとして見ているだけでもつらいのに、当時実際に指示を出した側、出された側、そして民間人は、どれだけつらかったんだろう。
この脚本の肝となる震災のシーンは本当に観ていてつらかった。「6階建てのマンションが2階部分が潰れてしまっている」というのは今までに聞いたことがあったのを思い出した。家屋の倒壊が激しかったのも、電気が通り出して火事が増えたのも聞いたことがあると思い出した。
「家族を助けて」と叫ぶ人々の姿も、助けられなくて叫ぶ救助隊員たちの姿も、当時至る所で見られた姿なんだろうと思う。取材した宇田さんも、取材を受けられた方々も勇気と決断がいることだったんじゃないかな……思い出すのも聞くのもつらい話だよ……
つらいことをきちんと描かないと意味がないし、脚本もぶれてしまうけれど、正面から向き合って作り上げられたことに頭が上がりません。
二幕の火災のシーンも、実際の現場を観たことがないので想像でしかないけれど、現実もこうなんだろうというくらいに真に迫っていた。
(マスクを着けても台詞が聞き取れたことにもびっくりした、皆さまさすがです)
先述したけれど、リアルな演劇はリアルな芝居があってこそ成り立つ。けれど演劇的に嘘をつかなければいけないこともある。今回の舞台は限りなくリアルに近付けた芝居をされていたと思う。嘘が必要最低限だったなと感じた。なんというか、それほど現実を伝えたいんだなと実感したというか……決してフィクションではなく現実にあることなんだと伝えたいんだろうなと感じた。
震災だけではなく、普通の火災でも要救助者はいる、いつ自分がそうなるかは分からない、そしていつ命を落とすか分からない。それは救助する側も。
この芝居がリアルだと感じたところのひとつに、小日向の問い掛けに亡くなった山倉が返事をしなかったことがある。小日向が山倉の遺品であるグローブを握り締めて問い掛けたあのシーン、御涙頂戴ないやらしい印象にもなりえるが、山倉のシルエットを登場させるとか「小日向さん!」って言わせるとか、そういう演出を入れがちになるシーンだと思う。それをしないで照明と音響だけ変えるのは、とてもリアルでとても演劇的だと思ったなぁ。
【伝え継ぐ記憶】
フォーラムで皆様も仰っていたけれど、災害のことは伝えていくべきなのだとやはり思う。いつなにが起こるか分からない。起きたときに、知識としてあるとなしではきっと行動も変わる。
日本は災害大国で、こればっかりは人間がどうしようもないけれど、そのあとの行動はどうにかできる。それより前に備えることも。
「ひとりでも多くの命を救う」のは救助隊員だけではなく、自分たちひとりひとりの心掛けである。改めてそれを思い出しました。
七條さんが「一日一公演が限界」と仰せだったけれど、観るほうもとても消耗する演目でした。魂を削るような素晴らしい公演をありがとうございました。
大千穐楽、おめでとうございます!!
2018.11.03. 18時公演 / 11.04. 13時公演