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ミュージカル「エリザベート」(エリザベート:花總まり回)を配信で観たよ

【充実の耀き 終わりへ向かう美しさ】


実を言うと、東宝版はあまり好みではない。というのも、はっきりとシシィに焦点を当てたウィーン版や、ロマンスに振り切った宝塚版と比べてなんとも中途半端な印象を受けてしまうからです(観た順番が宝塚版→ウィーン版→東宝版なのもちょっとよくなかった……)
……ということもあり、ギリギリまで現地観劇を悩んでいたけどほんとにチケットがなく(2016まではまったく苦労せず取れたのに……)まぁ配信があるからいっか、ということで配信で観劇しました。
他の配信も被ってしまい、どちらも観ると時間がなくなるな……と悩んだ末に花總回を観ることにしました。わたしは花總信者なので笑。

東宝版を中途半端に感じる要因は、まぁいろいろあるのやが、一番は「愛と死の輪舞」がトートのソロ曲であること。
この曲は1996 年の宝塚版初演の際にリーヴァイ氏が書き下ろした曲で、宝塚版でも東宝版でも歌われている日本語詞は、端的に言うと「トートがシシィに一目惚れした曲」だとわたしは解釈しています。この改変はトート(主演男役)の比重を大きくしなければならない宝塚版ならではで面白いし、楽曲としてとても好きな曲でもあります。
ただ、これをシシィが主演である東宝版で歌うのはどうなんだろう?とずっと思っていて。
これ歌っちゃうと、物語の中でトートの比重が大きすぎやしない?だから中途半端に感じてしまう。
この曲は2012年にウィーン版に逆輸入されています。それはトートとシシィ、お互いが対極にいる存在で、だからこそ惹かれ合うんだと気付くデュエット曲なんですよね。
韓国版でも歌われているのですが、これでふたりの立ち位置に対する解像度がぐっと上がったと感じています。
なので東宝版でもデュエット曲にならないかな〜というのがこのあたりの感想であり、願望です。
当時どういうオーダーだったのかはわからんけど、イケコは後年「"旅立つことなくしてはやってこない"という原題だった」ということをコメントしています。ドイツ語歌詞にも同じフレーズがあるので、1996年から大きくは変更されてないんじゃないかなぁ。
あと単純にデュエット版だとどんな歌詞を当てるんだろうという興味もあるので、いつか訳してくれないかなイケコ……。

そして「中途半端に感じる東宝版」に関係あるようなないような話なんですけど、物語におけるルキーニってものすごく重要じゃないですか。
黒羽くん初めて観たのですが、聞いていたより歌も芝居も上手いじゃん!と思ったんですけど、花總シシィとゆんトートに押されて、ストーリーテラーというよりはナレーターになってしまっていた印象でした。ただ地の文を読み上げているというか。
劇中人物をルキーニが動かしているように見えたり、はたまたトートと結託しているように見えたり、とにかく物語に介入しているルキーニが好きなので、ちょっと物足りなかったなぁ。このへんは好みかもしれない。
また別の役で観たら印象が変わる人かもな、とも思ったので次も楽しみにしています。

まりおフランツはいろんなことをすべて「信じている」人だなと思いました。
シシィが理解してくれることも信じているし、ゾフィーの言い付けや自分を(息子としてだろうが皇帝としてだろうが)案じていてくれることを信じている感じ。
プロポーズしたときは彼の理想の皇帝夫妻になれることも信じていた。彼の知っている貴族のお姫様ではないところに惹かれたけど、彼の知っている貴族のお姫様のように理想的な、従順な妻になってくれるとも信じていたのかもなぁ、世間知らずなので。あとあそこまで強い性格だとは思ってなかったんだろうな……。
信じているっていうのは信頼しているとかそういうのではなくて、「ピンチになったらヒーローが助けに来てくれるって信じてる!」みたいな、ある意味で夢想の「信じている」。
だからシシィと長い間向き合えなくて軋轢が生まれてしまったのかもなぁと感じました。
それはそれとして、よく考えなくても育児を「(姑と)譲り合おう」とかいう夫、ヤバすぎるな。今さらだけど。

甲斐ルドルフはずいぶん屈強な印象でした。マッドマックスに出てきそう(?)
なので二周目したときに、子ルドの「猫を殺した」にあぁ……と妙な納得をしてしまった。
強いからこそ耐えて耐えて耐えて、折れるときに一気に折れてしまったんだろうなと。粉々というより真っ二つに折れてしまったというか。
逮捕されたときはまだ折れていないように感じます。そのあと両親に拒絶されてぽっきり折れたんかな。
そういえば、ゾフィーの「義務を忘れた者は滅びてしまうのよ!」という台詞に初めて衝撃を受けた。今までは「それはそう」くらいの感想で、特に深く考えてはいなかったんですけど。
あの台詞で、うたこゾフィーは帝国を支えてきたプライドや、ある意味で意地のようなものが強い人なんだなと感じました。ハプスブルク帝国の崩壊を見ずに死んだことは幸せだったのかもしれない。

ゆんトートは適度に変態っぽくていいですね。それでいて清潔感があってシュッとしているのもいい。
実体があるタイプのトートが好きなんですけど、「現実感がなさそうでしっかりとある」面白いトートだったなと思います。だからこそ子ルドが懐いたんだろうな〜と感じました。
シシィがふらつくたびに微笑んで、でも自分=死のことを現実的に考えていない(とゆんトートは思っている)シシィに怒っているようにも感じた。

花總シシィでいちばん好きな曲は「魂の自由」だったりします。まりさんの自信に満ちあふれて輝いている芝居よりも(もちろんそれも素晴らしいのですが)(鏡の間の美しさに毎回泣いちゃう.....)どこかぎりぎりで踏みとどまっているような芝居が好きなんですよね。モーツァルト!のナンネールみたいな。
(でも現役時代で好きなのはBOXMANのドリーやホテルステラマリスのステイシーという、いわゆる普通の人のお役….....)
まりさん、お歌自体は「めっちゃ上手い!!」というわけではないけれど、「歌で芝居ができる」人だなと思うしそこが好きです。だからこそエリザベートに合っている人だとも思います。
この曲の「狂えるほどの勇気を私が持てたなら」という部分に毎回鳥肌が立つ……。
「パパみたいに(リプライズ)」で言われているように魂=幻と話すけれど、ヴィンディッシュ嬢のように自分を見失ったりはしていない。
花總シシィは、ずっと綱の上に立っていて、先に進まないといけないのに落ちるのが怖くて一歩も進めない印象です。子どものころは好奇心だけで飛び出して行けたのに。
ニュアンスとしては「大人になりすぎてしまった子ども」というか......子ども時代を奪われてしまったので取り戻そうとしている?いやちょっと違うな...…。
子ども時代への憧憬はとても強い気がします。けれど戻れないのも分かっているから苦しくて、生きていたいから苦しくて、狂ってしまいたいけれどそんな勇気はない。
すごくキャパシティの狭い人だったんだろうなとも思います。自分の苦しみで精一杯で、フランツやルドルフに向き合う余裕がなかった。親類に変死が多いのも理由のひとつだったのかも。シシィは死に強く憧れているけれど、だからこそ恐れている気もします。

「嫌な感じじゃないんです。大きな火は怖いですけど、綺麗だなとかすごいな、って思うでしょう?それと一緒なんです。すごいなって、思うんですけど、それと同時になんだか竦んでしまって、それで」

ってやつです(突然の十二国記
ルキーニに刺されたことで「誰しも死と踊るもの(大好きなウィーン版プロローグ歌詞)」と理解して、死=トートを受け入れたのかなぁ。そしてシシィにとってはそれが「魂の解放」だったのかな。
「死ぬことができたシシィと死ぬことができなかったルキーニの話」という成河氏の解釈がすごく好きで、だからこそラストに棺に入る演出が好きだったんですけど今回は違う演出でちょっと残念。あの演出もまた観たいです。

カテコで印象に残ったこと。
まりさんが自身の中にいるシシィを天に返すような仕種をしていて、Mayaさんのラストシシィの日のカテコを思い出した。
ウィーン版最多出演のMayaさんは、2012年に日本での公演に「今回で演じるのは最後」と銘打って出演していて、その大楽カテコで「私の中のエリザベートにさよなら!」って言いながら同じような仕種をしていた。
ふたりとも長い間同じ役を演じていて、自分の中に「降りてきている」感覚だったのかなぁ、ととても印象に残りました。

花總シシィに対する思い入れがちょっとありすぎて、神格化してしまっている自覚はあります笑。読み返してみると他キャストに対しての文量……笑。
わたしが初めて観たエリザベートは1998年宙組で、続けて観たのが1996年雪組。なのでわたしのシシィの解釈は完全にまりさんが礎になっていておりましてね……。
日本初演のシシィがまりさんで本当に良かったな。そしてここまで続けてくださって本当にありがたいです。
東宝版シシィのキャスティングに思うことはいろいろあるけれど、それでもこの年齢での花總シシィを観られたことは幸せなことでした。映像だけども笑。
次の再演はいつになるか、どんなキャストがくるかわからないけど、次はちゃんとチケッティングしようと思います……。


2023.01.31. 12時(配信)